可能性を信じる

可能性とは、それぞれが持つ、成功の度合いのことです。
よく「可能性に賭ける」とか「可能性を信じる」などで使いますよね。

可能性がないものなんて、本当はひとつも無い様に思います。
自分の目に映る世界は、自分が作っているわけなので、自分次第で変えられます。

今日、近くの商店へ、しめじを買いに行ってきました。
最初にその商店へ買い物に行ったのは、2ヶ月前くらいだったでしょうか。
その時は、店員さんがQRコード決済のやり方がわからなくなってしまった様で、その場にいた別のお客さんも巻き込みながら解決に至ったという面白い出来事がありました。

そして、その2週間後くらい、またその2週間後くらい、そして今日と、だんだんとそのレジ打ちの方も慣れてスムーズにコード決済ができる様になっていきました。

その方は60代半ばくらいで、初めは「憶えられないのよねぇ」と笑いながらおっしゃっていました。
最初のうちは、私はついつい「たぶんこのボタンですよ」などとお節介を焼いて、ほのぼのとした時間を共有していたのですが、今日は途中でそれを言おうとしたのを止めて見守ったところ、ご自身で完璧にこなされていました。

この出来事で、私は、クライアントさんへのセラピーにおいても「相手の可能性を信じて見守る」という前提がいかに大事かということを、改めて感じさせられました。

相手の動向が分からないうちから手を貸すのは、成長を阻害する”余計なこと”です。
相手を信じ見守りつつ、本当に助けが必要なところを見極めてからサポートするのは、とても大切です。

そもそもお節介を焼くのは「いい人に見られたい」などの、外側から評価されたい自分がそこにあったりします。それは、自分自身に良い評価を与えられていないから、周りからのものを求めているわけです。

私の場合、その原因として「罪悪感」や「自分には価値がない」という思考パターンがありました。
過去にクリアリングしたものでも、その”片鱗”だけが残っていたということはよくあります。
そういったことも、日々の事象は気付かせてくれます。

私が23歳くらいの頃、住んでいた鳥取県でファッションデザインのコンクールがあり、グランプリを取ったことがあります。その時の作品のテーマは「成長と可能性」でした。

その後に就職したバッグデザインの会社では、先輩が「みっちゃんにも出来るかな〜?」と冗談ぽく笑って言ったことに対して、全然自信がなかったにもかかわらず、「やれば出来る」と図々しい(?)発言を大真面目に返したりしていました。昔から負けん気は強かったですね。
(これも、勝ち負けの二元性の思考や、私は欠陥品だ、という思考があったからかと思います)

人は、魂が持つ根本的な考えは変わらないものです。

今日のひとこと
『 何事も、真の心で求めれば必ず与えられる 』

今日も素晴らしい日をありがとうございます。

LATLEA
動物と家族のメンタルケアセラピスト
光田恵美

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